シベリア抑留絵画(勇崎作衛)

勇崎作衛氏の作品(87点)は東江寺が保管しております。
作品の展示をご希望される方は東江寺にご連絡下さい。

 

第七大隊労働大隊(ウランウデー)

戦友、朝焼の野の葬送(ウランウデー)

 

略歴

大正12年富山県に生まれる。昭和19年陸軍入隊。同20年シベリア抑留。同23年舞鶴に帰国。65歳の時から、シベリア抑留体験画の収録。平成5年「凍土の下で戦友が慟哭(ない)ている」を発刊。全国各地で個展合同展を実施。

 

主な展示略歴
場所 会場施設名 年月 回数
東京都 大田区自店舗一部 H3年〜7年
東京都 大田区民プラザ H3年〜5年
東京都 大田区蒲田駅グリーンロード H4年8月
京都府 舞鶴引揚記念館 H4年〜
東京都 千鳥ヶ淵墓苑 H5年4月
東京都 北区中央公園文化会館 H5年〜8年
富山県 高岡文化ホール H5年8月
武蔵野市 三鷹芸能ホール H6年3月
兵庫県 神戸市民ギャラリー H6年8月
神奈川県 川崎市民プラザ H6年11月
東京都 日本橋三越本店 H7年2月
神奈川県 神奈川平和祈念館 H7年8月
大阪府 大阪城ピース大阪 H7年9月
東京都 正則高校学園祭 H7年〜8年
京都府 京都市美術館 舞鶴文化会館 H7年11月、 12月
茨城県 水戸伊勢甚デパート H8年5月
愛媛県 NHK松山放送局 H8年8月
北海道 コープさっぽろ H8年11月
広島県 広島市民センター H8年12月
福島県 郡山ウスイデパート H9年3月
高知県 NHK高知放送局 H9年8月
東京都 ギャラリー白百合 H12年8月
静岡県 静岡県立美術館 H14年1月

  抑留生活の日々を描き続けて、同胞の無念、戦争の悲惨さを訴えていきたい

 蚕棚のような三段ベッド、そんなベッドで寝ていたある夜、身体中が痒くて痒くてしようがない。あっ!思わず声を上げてしまいました。慌てて隣りのベッドを覗き込むと、そこには体調を崩していた満蒙開拓少年団の十七歳の若者がすでに息を引き取っていました。冷たくなった彼の身体から私の温かい身体に、無数の虱たちが移動してきたのです。悲しいというよりは、こみ上げる怒りのような感情にとらわれながら、私は若者の死に顔を呆然と見つめていました。なぜ、なぜだ。これから素晴らしい人生があるはずの若者を殺さなくてはいけないのか。「満蒙開拓少年団」の若者は民間人です。おそらくソ連軍の侵攻を知り、避難する途中で日本の軍隊と出会い、一緒に行動していたのでしょう。そのため彼らも捕虜になり、死に追いやられたのです。
 シベリア抑留生活は悲惨の一言でした。私の記憶に蘇る一コマ一コマは地獄絵と言ってもいいものです。丸三年間のシベリア抑留生活、そこで体験し見聞した出来事をできるだけ多くの人に伝えよう、残りの人生をそのことに費やそう・・・。私がそう決意したのは六十五歳の誕生日を迎えた十四年前のことです。
 私は昭和十九年に召集され、満州(現・中国東北部)へ渡り、陸軍病院で衛生兵として勤務しました。そして翌年に終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となってシベリアであの過酷な抑留生活を送ったのですが、三年後、幸いにもなんとか無事帰国することができました。
 その後、故郷の富山から上京、大田区で家具販売を始め苦労もしましたが、今は幸せな日々を過ごしています。でも、帰国後の日々、私の心の片隅にはシベリアでの抑留生活の日々の出来事がずっと棲みついていました。多くの同胞が酷寒の地で飢えと病気で倒れ、死んでいきました。あの日々のことを思えば、この程度の困難や苦労に負けてはおれない、それは私の人生の励ましにもなりました。
 六十五歳を迎えて、サラリーマンならもう定年だな・・・と思った時、半世紀近く前の抑留生活のことが、あらためて走馬燈のように蘇ったのです。そうだ、子供たちも無事に成長した今、これからの私の人生は、あの悲惨な抑留生活の日々を世に遺すこと費やそう、それはシベリアの地に眠る同胞たちへの私の努めだと思ったのです。
 文字にして残すことも考えましたが、そんな本はすでにたくさん出版されている。そうだ、絵にして遺そう!と思いついたのです。子供の頃、絵を描くのは好きでしたが、成人してからは、まったく無縁でした。
 「絵画教室にでも行って習えばいいじゃないの」
 そう息子に勧められたりもしましたが、まったくの我流で、記憶に残るシベリア生活の光景を描きました。上手に描こうとか、綺麗に描こうとか、そんなことは考えずに、亡くなった多くの同胞に、心の中で手を合わせながら絵筆を手にしました。だから、一枚一枚が私にとっては絵の勉強であり、描きあげた絵は私の心の絵です。
 そうして出来上がった絵の展覧会を全国各地で開くようになったのは十年ほど前から。シベリアで肉親を亡くした遺族の人達、抑留体験者など、大勢の人々が涙を浮かべながら私の描いた拙い絵に見入って下さいました。私の絵が人々の胸を打ったわけではない。そこに描いた光景が見る人に言葉にならない何かを想起させたのだと思います。
 ソ連軍が国境を越えて満州に攻め込んで来たのは、昭和二十年八月八日、終戦の七日前のことでした。中国東北区フラルギにあった陸軍病院に勤務していた私達はチチハルへ避難しましたが、まもなく終戦、ソ連軍の捕虜になりました。進駐してきたソ連軍は軍隊というよりは強盗団と言っても過言ではありませんでした。街角で日本人を見ると、「ストイッ!ストイッ!(止まれ)」と言って銃を向け、「時計を出せ、万年筆、万年筆」と身体検査をし、持ち物を強奪しました。強奪した時計の針が動くのを見て、あわてて路上に投げ出し、銃を乱射するソ連兵も多く、彼らは時計の針が動くのを見て、得体の知れない生き物だと勘違いをしたのです。両腕に何個も時計をしたソ連兵もいました。
 民間の日本人は外出を控え、家に閉じこもり、息を殺すようにして毎日を過ごしました。でも、家の中にもソ連兵は押し入って来ました。乱暴をされた女性も少なくありません。ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたソ連軍は満州への移動が間に合わず、満州に侵攻した兵隊の中には刑務所に収容されていた囚人も多くいたそうです。
 略奪は個々の兵隊だけでなく、ソ連軍全体でも行われました。連日のように満州の工場から機械などが根こそぎ列車でソ連国内に運ばれました。そのために捕虜になった日本の兵隊が動員されました。ソ連軍は満州の工業施設や機器の三分の二ちかくを戦利品と称して国内に持ち帰ったのです。
 冬の気配が色濃くなった頃、この大略奪が終わると、捕虜となっていた私達兵隊は「日本に帰す」と言われ、それまで戦利品を運んでいた貨車に乗せられました。日本に帰れる・・・、最初は誰もがソ連軍の言葉を信じていました。でも、「列車の走る方向が違う」と、そんな声が上がり、それまでの希望は一度に砕かれました。物資の略奪の次は人間の略奪が始まったのです。日本軍の兵隊たちのシベリア抑留生活は、こうして始まりました。 私達を乗せた列車は二十日以上も走り続けました。そして、私達が降ろされたのは下で真っ白になった枯れ草の野原。建物はもちろん、木立さえない大平原でした。シベリアに到着したのです。野宿と徒歩による移動の後、小高い丘に望楼らしい建物が見えました。そこが私達の収容所で、施設は先に到着した日本兵の建物です。電灯も水道もなく、周囲は鉄条網で囲われ、ソ連兵の見張りが立っていました。シベリアの十月は、もう寒い冬が始まっていました。ただ一つの幸いは、建物の中にペーチカ(暖房)があったことでした。 ここに収容された日本兵は約千八百人、山から木材を切り出す伐採作業が主な仕事でした。その他、バイカル湖の護岸工事に動員されたりもしました。零下三十度の中での作業です。木材の下敷きになったり、事故や怪我で死ぬ人もたくさんいました。空腹と疲れで気が狂う人もいました。時々、黒パンの支給もありましたが、私達の主食はドロドロに炊きあげた雑穀、カビの生えた身欠鰊の炊き込み粥でした。脱穀しない粟などは、体内で消化されず、そのまま下利便になって排出されるのです。そうとわかっていても、空腹を満たすために食べるほかありません。そして身体を壊し、栄養失調で死んでいく人も多くいました。
 収容所の建物はペーチカで暖房されていたのですが、外の気温は零下三十度以下。そのため室内全体が暖まるわけではありません。三段ベッドの一番下に寝る者は防寒服を着たままでないと寒くて眠れません。その一方、一番上で寝る者は裸でも暑くて眠れません。冬は衣服の洗濯などできないし、風呂にも入れません。室内は異臭でむせかえるような有様でした。
 月に一度、健康診断がありました。もっとも、これは病気を見つけるためではなく、毎日の作業のための体力のランクを決めるためでした。素っ裸になって女軍医の前に立たされ、次に後ろ向きになると、やおら女軍医はお尻の皮をつまんで引っ張ります。皮下脂肪の厚さで、お前は重労働、お前は軽作業・・・、という具合にランクが決められるのです。病気にかかっていても、三十八度以上の熱が出ないと、毎日の作業は休ませてくれません。 十月から翌年四月までの冬季に、最も多く犠牲者が出ました。大地は雪に覆われているため埋葬ができません。冬の間は収容所の一室が遺体置き場、まるで冷凍まぐろを積み重ねるようにして遺体を春まで保管するのです。雪が溶けるとそれらの遺体を涙ながらに埋葬しました。
 酷寒の地、シベリアにも四季はあります。多くの同胞が寒さ、飢え、病気で死んでいった冬が過ぎると、木や草が緑に萌え立ちます。誰もがホッとした気持ちになったものでした。収容所の生活の中では、民主運動というものも始まりました。ソ連や共産主義の素晴らしさを教える運動です。毎日の重労働への不満や、戦争が終わったのに日本に帰してもらえないことに不満を表すものや、ソ連軍と通じた日本人は「おまえは反動だ、人民の的だ!」と指弾され、つるし上げにあいました。理不尽きわまりないことでしたが、他の者は黙って見守るしかありませんでした。三度目の冬を迎えたある日、ふと目を向けた雪原の彼方に、故国にいる母の顔がはっきりと浮かび上がって見えました。不思議な体験でした。もしや母の身に異変があったのでは・・・、と不吉な予感もしましたが、後に帰国してみると母は元気で私を迎えてくれました。私は富山県の農家の出身です。子供の頃から農作業の手伝いをして鍛えた身体、また年齢も若かったので、酷寒のシベリア抑留生活にも耐えられたのだと思います。年配者や都会育ちの人に犠牲者は多かったのです。
 私たちの日本帰国が決まったのは昭和二十三年の秋。迎えに来た信濃丸の船上から遠ざかるナホトカの丘を身ながら、この時、初めて日本に帰れるという喜びが込みあげてきました。同時に、あの地で次々に倒れ亡くなっていった同胞の顔が走馬燈のように思い浮かびました。
 日本に近づくと船上では、収容所でソ連軍に通じていた者への指弾の声がわきおこりました。鬱積した怒りが爆発したのです。「海にたたき込め」「スターリンの所へ帰れ」、そんな罵声が飛び交いました。この帰途の船上で、私たちは三年ぶりに米の飯を食べました。黄色い汁をかけたカレーライスのようなご飯でしたが、誰もが大はしゃぎ。赤い梅干しの酸っぱさ、黄色い二切れの沢庵漬けの味は今でも覚えています。
 あれから、もう半世紀以上の歳月が流れました。描き始めた絵も、もう百枚近くになります。前にも言ったように、拙い絵ですが、涙を流してくれた人も少なくありません。これからも生きている限り、私は絵筆を手に抑留生活の日々を一枚一枚、同胞の無念、戦争の悲惨さを訴えるために描き続けていきたいと思っています。
  

『TALK TALK』53号(いんなあとりっぷ社発行)より転載           

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